ファッションをうたうブログなので、たまには本の紹介を。
学校では国語や算数などを習いたくなくとも習いますが、ファッションは誰かから手とり足とり教えてもらえるものでもありません。各人がそれぞれのセンスで独自の道を探っていくしかない。
だから、洋服に興味を持ちだした年代にさしかかったとき、ファッションとのつきあいかたが学べる教科書的なものがあると便利ですよね~。
今回紹介する本は、ファッションが気になるお年頃の人が今後のファッションとのつきあいかたを、もしくはファッションが気になるお年頃をとっくに過ぎてしまった人は改めてファッションについておさらいするのに、適した本だと思います!
今回紹介する3冊は、具体的には以下のような人向けの本です。
①ファッション・ライフのはじめ方
今後のファッションの方向性についての具体的な指針を求める人向け
②妹たちへの贈り物
自意識過剰にふりまわされてファッションの袋小路に入ってしまっている人向け
③人はなぜ服を着るのか
軟弱で確固たる軸のない「ファッション」というものに自分がふりまわされることに納得いかない人向け
ファッション・ライフのはじめ方
てっとりばやくメンズファッションの概要をつかむのに超便利な本です。 服だって、人間にとっては単なる道具の一種なはずなのに、 なぜだか我々が服に抱く感覚は独特のものがありませんか。
文房具や電化製品に対するような気持ちとは違うなにか。 胸がイガイガするような、締め付けられるような、向き合いたくないような、でもワクワクするような。
なぜ、洋服には、単なる道具とは違うイメージを投影してしまうのか?
妹たちへの贈り物
常に焦りまくるモモねーさん
著者は、元『25ans』のエディターで、ファッションジャーナリスト、エッセイストである光野桃。 彼女は、おしゃれの中枢と言えるキャリアを持ちながらも、若かりし頃はファッションについて迷いに迷っています。 ホント面白いくらいに迷います。ブレイクスルーを迎えるモモねーさん
本の中での著者の一番のブレイクスルーは、「外発反応」という心理学用語との出会いです。外発反応-それは周囲の状況によって自分の行動が影響を受け、左右されるということだと書いてあった。外発反応が高い人というのは、外からの様々な働きかけに対して敏感に反応する人だという。一着の服を見たとき、「一着の服である」と認識するのが外発反応の少ない人、 「この服を着たい」「誰がこの服を着るのだろう」と感じるのが外発反応の高い人とのことです。
ちょっと脱線。中二病なモモねーさん
高校から大学ぐらいにかけての頃、よくベッドからガバリと跳ね起きることがあった。朝、~略~ とにかくハッと目が覚める。すると次の瞬間「今のままじゃだめだ」と言う声が頭の中に聞こえてくる。そうだ、だめなんだ、私って何てだめなんだろう、変わりたい、何とかしたい、何とかしなくちゃ
あの頃、私は今よりずっと自分が嫌いだった。何とか違う自分になりたいともがき苦しんでいた。しかし今思い返してみると、小さな殻の中で自家中毒的に堂々めぐりをしていただけのような気がする。つまり自分が嫌いと言いながら、その実、自分のことしか考えていなかったのだ。
女性の著者ですが、中二病がごとく現実と理想のはざまで七転八倒する様子は親近感がわくと思います。
とともに、おしゃれエディターだった著者が「これじゃだめだ!こんなワタシじゃだめだ!」と自己否定して自我とファッションの間で苦しむ姿にホっとするのではないでしょうか。みな同じなのです。あなたのそばにいるおしゃれな友人も同じ思いを経て今がある。
田園調布のお嬢さん育ちの彼女は私より少しだけ流行に疎かった。どこか野暮ったいところがあった。そこが上品で心休まる彼女のキャラクターのよいところでもあった。共通のおしゃれ話ができるうえに、その相手をわずかばかりリードする関係、それが何ともいえず心地よいということに、私はすでに気づいていたのである。
『妹たちへの贈り物』はどうも絶版になっているようで。 いい本なんだけどなぁ。
ひとはなぜ服を着るのか
ファッションは「わたしはだれ?」という問いと戯れている。(ロラン・バルト)
ファッションにまつわる悩みの源泉
ひとはどうしてそうしたセルフイメージの操作にやっきになるのだろうか。社会が都市化したからである。~略~ 都市に人口が流入し、じぶんがだれであるかを各人がじぶんで枠どらねばならなくなって、ひとはアイデンティティという鎧を必要とするようになった。 ~略~ つまり、じぶんは他人とどの点で違うのかを、じぶんで証明しなければならなくなった。ファッションの悩みは大概、こういうところから来ているのではないでしょうか。 昔は、服装がそのままその人の身分や出自を示していた。
ファッションはパラドクス!
この本ではファッションが語られるたび、逆説的な表現が出てきます。“モードとは、無秩序に変えられるためにある秩序である”(ロラン・バルト)
“モードはこうして、≪みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系≫というぜいたくな逆説をたくらむのだ” (ロラン・バルト)※著者は「モード」をファッションの狭義ととらえています。
パラドクシカルにきこえるかもしれないが、ファッションはなにが流行るかになんの関心ももっていない。~略~ファッションという領域においては、ものはよいから流行るのではなく、流行っているからよいのである。こういう無条件の強制力が、ファッションという現象に本質的である。
ファッションは結局は前のシーズンと異なるということにしか関心がない
まとめ:思春期は洋服選びの迷路の入り口
「他人から自分はどう見えるだろう」という問いと「人からかっこよく見られたい」という悩みは同時に始まるのではないでしょうか。男子も女子も、思春期あたりからファッションに興味を持ちだしますよね。
思春期は「自分は他人と違う」という意識が芽生え、他人とは違うらしい「自分」が他人にどう見られているかということが気になりだす時期。
ファッションのややこしいところは「他者からの視線を考えなくてはならない」ところにあると思います。服を着るのは自分であるにもかかわらず、服を着ている自分のことを自分は見ることはできない。
自分の姿に近いものを、鏡やガラスに映して見ることはできますが、その自分の姿も正確な自分自身ではない。 鏡は左右が逆だし、動画に映った自分だって、レンズを通した自分の姿であり、写真だってしかり。
他人からの視線を強烈に感じることはない思春期前の時期。気分のおもむくまま自分の好きな服を選ぶか、母親からいわれるがままの服を着ていたのでは。
思春期にさしかかると突然、オカンの選ぶ服はダサく感じ、かといって自分の選ぶ服にも自信がなくなる。
「自分は人からどう見られているのだろう。ダサいって思われたらヤダな。ていうか、かっこいいって思われたい!」
洋服選びの迷路の入り口。 以後、誰もが明確な答えを見つけることのないままファッションについての試行錯誤を続けるわけですが、 そんなときに今回紹介したような本を読むことができれば幸運なのではないでしょうか。
漠然としたファッションというものをなんとなくつかめるのではないでしょうか。そうすると、その後のファッションライフがかなり楽になるはず。
自我とファッションをテーマとする3冊を、ファッションを知る導入としたのは、漠然としたファッションの悩みはほとんど「自分とは何か」もしくは「自分と社会」に集約されると思うから。
思春期のうちに、未来の道しるべとなって、自分のファッションの行方を照らしてくれるような本に出会えるのはラッキー!もちろん、思春期をとっくに過ぎてから地団駄を踏みながらこれらの本を読むのも楽しいものです。
じゃあ、具体的にどうしたらええねん!という人はこちらをどうぞ。
ついったやってます。ファッションかかわらず(!?)読んだ本についてもつぶやきます☆
https://t.co/EFAe2jg6Ru
— じゃむ@25着 (@25jarmusch) 2019年4月23日
→つまり、みんななんとなくわかってて言わないようにしてたことを「あああああゆってもーーたーーー」っていう(←全然つまりになってない)
個人的には去年読んだ本のなかで一番おもしろかった(この紹介では何の本かまったくわからないですねっ🤘)#サピエンス全史